はじめに
得度前より20年来、石川・福井・岐阜の各県にまたがる霊峰白山より、若狭・京都・奈良・和歌山熊野へと連なる数々の水にまつわる仏様・神様の地を巡ってきました。この巡礼を「水巡り」と呼んでいます。「水巡り」が始まったのはまだ僧侶になる前で、研究の仕事の合間に時間を見つけては巡っていたのですが、その中で、仏の世界・神の世界に関わることを自分の本分として生きていくことを本気で考えるようになっていきました。
この、仏の世界に生きる、という思いは少しずつ積み重なっていったものでしたが、この自分の「本分」をはっきりと自覚した一つのきっかけは、東大寺二月堂で毎年旧暦2月に行われ、「お水取り」の名でも知られる修二会を見に行った時でした。2週間の本行の12日目深夜、二月堂下の若狭井から水を汲み上げ本尊十一面観音にお供えする「お水取り」の作法を観ていた時、これは自分も「中の人」にならなければならないと強く思いました。その後ご縁あって高野山にて得度することになりました。またご縁あって水の仏様である多羅菩薩を本尊として、自分なりの「水の行法」を現在も重ねており、言わば、この「水巡り」が嵩じて得度してしまったという側面もあるのです。
このページでは、「水の道」を形作る水の聖地と、これからも続いてゆく「水巡り」の記録をご紹介していきたいと思います。
「南へ下る水の道」から「円環をなす水の道」へ
石川・福井・岐阜の各県にまたがる霊峰白山を起点とし、若狭・京都・奈良・和歌山熊野へと、水にまつわる数々の仏様・神様が連なっています。私は、この若狭から南下して熊野に至る道筋を「水の道」と呼び、この水の道を巡る巡礼を「水巡り」と呼んでいます。
私は得度前より20年来、この「水の道」を繰り返し繰り返し巡って来ました。 中でも、実際に清冽な水が湧き出している、肉眼に見える「泉」である寶篋山天徳寺の瓜割の滝と、若狭姫神社・若狭彦神社の「奥宮」である鵜の瀬には、これまで数十回以上はお参りし、いつもお水を頂いて帰っています。天徳寺は、奈良時代、養老年間に白山を開いたと言われる泰澄大師(『泰澄和尚伝記』より)の開基で、この水巡りの過程で、この瓜割の滝の甘露な水は、仏の世界では白山に繋がっているのではないかと思うようになりました。「水の道」の本質的な水源は白山であるというのが、私の感じている、また観じているところです。
当初はこのように、若狭から京都、京都から奈良、奈良から十津川を経て熊野の太平洋へと至る「水の道」を折に触れ繰り返し繰り返し巡り、そして2013年6月19日、初めて三重県熊野市にある花の窟神社に至った時、一つの「ゴール」に達したという強い感慨に打たれました。これによって、私の「水巡り」は一つの段階を終えました。
翌2014年2月3日、例年通り私の師僧のお寺である高野山別格本山大円院にて、節分の定例行事である「星供」に出仕した時、玉置・熊野から伊勢につなぐ道筋があることに気がつきました。それまでも伊勢神宮には折に触れお参りに訪れていたのですが、基本的には京都から伊勢に向かい、そのまま京都に帰っていたのですが、玉置・花の窟から熊野灘沿いに伊勢に至った時、この地方独特の「南国の空気」が繋がっているということを深く実感しました。 この時の感覚も併せて、「水の道」は熊野から南へ抜けていく一つの筋があると同時に、北東にぐるりと向きを変え、伊勢神宮に至る筋があるということを、この高野山での星供の際に直観したのでした。そして伊勢と言えば、しばしば言及されるように白山と同一子午線上にあり、つまり伊勢からまっすぐ真北に上ると白山に至るのですが、この道筋に沿って「水の道」も白山へ還って行くという図が頭の中に見えました。ここから、私の「水巡り」の新たな段階、「円環をなす水の道」を巡る旅をさらに続けて行くことになったのです。
きっかけ
今思えば、この水巡りの最初のきっかけは、私が得度する9年前、ひょんなことから人に誘われて石川・福井・岐阜の各県にまたがる霊峰白山に登ったことでした。 当日(1996年8月3日)は天気にも恵まれ、お昼過ぎには山頂に到着、昼食後山頂付近のお池巡りなどを楽しみました。下山の道は思いの外体力の消耗が激しく、最後は自分の体力の限界ギリギリで登山口にたどり着いたのをよく覚えています。
その6年後、愛読していた岡野玲子著・夢枕獏原作の漫画版『陰陽師』(スコラ社刊、後に白泉社刊)の8巻、雨乞いの巻にインスパイアされ、作中で主人公の安倍晴明とその相棒源博雅が巡った雨乞いの地を実際に巡ってみることを思い立ち、2002年9月22日、京都を起点に神泉苑、若狭の寶篋山天徳寺、鵜の瀬を巡り、とって返して京都市北部の貴船神社に参拝、さらに南下して、奈良の東大寺・三輪山をかすめ、室生寺奥の龍穴神社の龍穴、そして丹生川上神社中社をお参りしました。この日はここで完全に日が暮れてしまったので一旦引き返し、次に上洛の機会があった同年11月2日、再び丹生川上神社中社を訪れてそこから、吉野宮滝・吉野山を経て天河弁才天社(天河神社)に参拝し、この最初の「水巡り」を終えました。
これが直接的なきっかけになり、当時から仕事の関係でしばしば京都を訪れていたこともあって、それ以来折に触れ繰り返し繰り返し、これらの水の聖地を巡ることになりました。その中で、『陰陽師』に描かれている地点のみならず、観音霊場として有名な京都の清水寺、また実は中学時代からご縁のある三輪山の大神神社との繋がりがとても強まり、また「お水取り」として知られる東大寺二月堂の修二会にも参拝するようになりました。
こうした水にまつわる神様や仏さんを繰り返し繰り返しお参りするうちに、仕事の合間に時間を作って神様や仏さんに会いに行くのではなく、神様や仏さんと向かい合うことを自分の人生の本分として生きていきたいという思いが強くなって行きました。特に、東大寺二月堂修二会のまさしく「お水取り」の儀式を拝観させて頂いていた時、やはり仏教の行法(ぎょうぼう)はやってみないとわからない、「中の人」にならなければならない、ということを痛切に感じました。ちょうどこの頃(2005年頃)から得度を具体的に考え初めていて、この時の印象が、大きく私の背中を押すことになりました。
また得度後もこの水のお参り、「水巡り」は深まって行き、『陰陽師』にも言及のある、玉置山の玉置神社(奈良県十津川村)にも繰り返しお参りに行くようになったり、若狭の天徳寺のご住職と親しくお話させて頂くようになったり、高野山での修行中、天徳寺と同じく白山を開いた泰澄大師ゆかりの朝日山福通寺(通称朝日観音、福井県丹生郡越前町)のご住職と出会い、懇意にさせて頂くようになりました。
ここでは、「水の道」を形作る水の聖地と、これからも続いてゆく「水巡り」の記録をご紹介していきたいと思います。